志賀直哉『城の崎にて』のあらすじを徹底解説|蜂・鼠・イモリの死が語る生と死の意味まで

志賀直哉『城の崎にて』のあらすじを徹底解説|蜂・鼠・イモリの死が語る生と死の意味まで
目次

はじめに

志賀直哉『城の崎にて』は、電車事故で大けがをした「自分」が、療養のために訪れた城崎温泉で、蜂・鼠・イモリという三つの小さな生き物の死を見つめ、「生きていることと死んでしまっていることは両極ではない」という境地にたどり着くまでを描いた短編小説で、日本の心境小説の傑作として知られています。

「城の崎にてってどんな話?」「教科書で読んだけど、何が言いたい作品なのかよくわからなかった」という方も多いのではないでしょうか。1917年(大正6年)に発表された本作は、10ページほどの短さでありながら、簡潔で無駄のない文章と深い死生観によって、今も高校の国語教科書の定番教材となっています。この記事では、『城の崎にて』のあらすじを三つの生き物のエピソードごとに丁寧に追いながら、作品の背景、主人公の心の動き、そしてテストやレポートでも問われやすい主題の読み解き方までをわかりやすく解説します。

『城の崎にて』の基本情報と作品背景

1917年『白樺』に発表

『城の崎にて』は、1917年(大正6年)5月、白樺派の同人誌『白樺』に発表された短編小説です。作者の志賀直哉は、武者小路実篤らとともに『白樺』を創刊した白樺派の中心的な作家で、のちに『小僧の神様』にちなんで「小説の神様」と呼ばれるようになります。本作は、志賀が長い沈黙を破って発表した作品でもあり、ここから『和解』『暗夜行路』へと続く充実期が始まりました。

作者自身の事故体験がもとになった

本作は、志賀自身の体験をもとにしています。1913年(大正2年)8月、志賀は東京で山手線の電車にはねられ、重傷を負いました。命は取りとめたものの、後遺症の心配もあったため、その秋、療養のために兵庫県の城崎温泉に滞在します。作中の「自分」の境遇は、ほぼこのときの志賀自身と重なっており、事実をもとにした「心境小説」の代表例とされています。

名文の手本とされる文章

本作は、内容だけでなく文章そのものが高く評価されてきました。余計な修飾を削ぎ落とし、見たもの、感じたことを正確に、短い言葉で写し取る志賀の文体は、谷崎潤一郎が『文章読本』で名文の手本として取り上げたことでも知られています。城崎温泉には今も志賀直哉ゆかりの宿や文学碑があり、「文学のまち」として多くの読者が訪れています。

登場する「自分」と三つの小動物

自分──死と向き合う療養中の作家

語り手の「自分」は、山手線の電車にはねられて大けがをし、医者から「背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そうなることはまずないだろう」と言われた男性です。命拾いをしたものの、一歩間違えれば死んでいたかもしれないという思いを抱えて、ひとり城崎温泉で療養しています。

蜂・鼠・イモリ──死を映す鏡

本作で「自分」が出会うのは、人間ではなく、三つの小さな生き物です。屋根の上で死んでいる蜂、首に串を刺されて川でもがく鼠、そして「自分」が投げた石に当たって死んでしまうイモリ。三つの生き物の死に方はそれぞれまったく異なり、「自分」はそれらを見つめることで、自らの生と死について考えを深めていきます。

あらすじ①:静かな蜂の死

城崎温泉での療養生活

物語は、「自分」が電車事故のあと、養生のために一人で但馬の城崎温泉へ出かけたことから始まります。三週間以上、できれば五週間ほど滞在するつもりで、「自分」は読書や散歩をしながら静かな日々を過ごします。頭はまだはっきりせず、物忘れもひどくなっていましたが、気分は不思議と落ち着いていました。一つ間違えば、今ごろは青山の土の下に寝ているところだった、と「自分」は考えます。

屋根の上の蜂の死骸

ある朝、「自分」は宿の部屋から、玄関の屋根の上で一匹の蜂が死んでいるのを見つけます。ほかの蜂たちは忙しそうに巣を出入りしていますが、死んだ蜂にはまったく関心を示しません。死骸は何日もそこに転がったままで、その姿は「いかにも静か」でした。やがて夜の雨が死骸をどこかへ洗い流してしまいます。「自分」は、その静けさに親しみを感じ、死後の静かさに憧れに近い気持ちを抱くのです。

あらすじ②:もがき苦しむ鼠

首に串を刺された鼠

ある日の午前、「自分」は川のほとりで、人だかりができているのに気づきます。見ると、首に魚の串を刺された一匹の鼠が川に投げ込まれ、必死に泳いで逃げようとしていました。石垣に這い上がろうとしても、串がつかえてうまくいきません。岸の子どもや車夫たちは、面白がって鼠に石を投げつけ、そのたびに笑い声が上がります。

死の前の苦しみへの恐れ

鼠は助からないと決まっているのに、全力で逃げ回っていました。その姿を見た「自分」は、ひどく淋しく、嫌な気持ちになります。蜂の死の静けさに親しみを覚えていた「自分」でしたが、死に至るまでのこうした苦しみは恐ろしいと感じます。そして、自分が電車事故にあったときも、助かるために病院の手配を必死に考えていたことを思い出し、もし同じ状況になれば、自分もやはりこの鼠のように、もがいてでも生きようとするだろうと気づくのです。

あらすじ③:偶然のイモリの死

風もないのに揺れる一枚の葉

その後のある夕方、「自分」は小川に沿って山のほうへ歩いていきます。途中、桑の木の一枚の葉だけが、風もないのにひらひらと揺れ続けているのを見かけ、不思議に思いながらも、やがてそれには理由があるのだと納得します。

投げた石が当たって

さらに歩いていくと、流れのなかの石の上に一匹のイモリがいるのに気づきます。「自分」はイモリを驚かせて水に入れようと、何気なく小さな石を投げました。狙ったつもりはなかったのに、石はイモリに当たり、イモリはそのまま動かなくなってしまいます。殺すつもりなどまったくなかった「自分」は、偶然に生き物の命を奪ってしまったことに、深い淋しさを覚えます。

「両極ではなかった」という結論

イモリは偶然に死に、自分は偶然に生き残った。そう考えた「自分」は、生きていることに感謝しなければならないはずなのに、喜びの感じは湧いてこないことに気づきます。「生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした」。薄暗い道を宿へ戻りながら、「自分」はそう感じるのです。そして三週間の滞在を終えて城崎を去り、それから三年以上がたって、脊椎カリエスにならずに済んだことが最後に短く記され、物語は終わります。

『城の崎にて』の考察と読みどころ

三つの死が示す死生観の変化

本作は、三つの生き物の死を通して、「自分」の死生観が少しずつ変化していく物語として読むことができます。蜂の死では「死の静けさへの親しみ」を、鼠の死では「死に至るまでの苦しみへの恐れ」を、そしてイモリの死では「生と死を分けるのは偶然にすぎない」という認識を得ていきます。この三段階の構成を押さえることが、本作を理解するうえでの最大のポイントです。

「偶然」に支配される生と死

イモリの死は、「自分」がまったく意図しなかった偶然によってもたらされました。同じように、「自分」が電車事故で死ななかったのも偶然にすぎません。人間の生死は、本人の意志や努力とは無関係な偶然によって左右される。この冷静な認識こそが、本作のもっとも深い到達点です。だからこそ「自分」は、生きていることを素直に喜ぶことができないのです。

簡潔な文章が生む深い余韻

本作には、大げさな感情表現や説明がほとんどありません。「自分」は見たものを淡々と描写し、感じたことを短く述べるだけです。しかしその簡潔さが、かえって読者の想像力をかき立て、生と死についての思索へと誘います。風もないのに揺れる桑の葉のように、何気ない描写の一つひとつに意味を読み取る楽しさも、本作の魅力のひとつです。

まとめ

『城の崎にて』は、電車事故で九死に一生を得た「自分」が、城崎温泉で蜂・鼠・イモリの死を見つめ、生と死の差はそれほど大きくないという境地にたどり着くまでを描いた志賀直哉の短編小説です。静かな蜂の死、もがき苦しむ鼠の死、偶然のイモリの死という三つの場面を通して、死生観が深まっていく構成は見事というほかありません。15分ほどで読める短さですが、何度読み返しても新しい発見がある作品です。教科書で読んだきりという方も、大人になった今こそ改めて手に取ってみてはいかがでしょうか。

この作品をAmazonで読む

志賀直哉『城の崎にて』は、新潮文庫『小僧の神様・城の崎にて』や岩波文庫などで手軽に読むことができます。表題作の『小僧の神様』や『清兵衛と瓢箪』など、志賀の代表的な短編をまとめて味わえる短編集がおすすめです。

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この記事を書いた人

文芸Webマガジンあけぼのの編集部です。

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